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猛烈な勢力を蓄えた台風10号が、日本列島目掛けてやって来るという。
関東エリアも、今日あたりから暴風域に入るのかと身構えていたら、抜けるような青空……拍子抜けである。
しかし、東北地方が大変だ。
これ以上、甚大な被害など、出ませんように。
そんな台風騒動の中、思い出すことがある。
僕が小学生の頃、ある日、台風がやって来た。
小学生にとっては、台風は一つのビッグイベントであった。
というのも、なぜだかワクワクするのだ。
学校が休みになるかも知れないし。
子供の頃の僕の心配事項など、その程度だった。
おめでたい。
あの日の台風も相当なもので、僕の住む香川県は朝から暴風雨に晒されていた。
四国山脈のお陰で、滅多に香川の方まで台風がやってくることなど無かったので、讃岐人は、他県に比べて、自然の怖さを知らない県民かも知れない。
僕は、ワクワクしていた。
「学校休みや!」
しかし、連絡網を伝い回ってきた情報は、僕ら小学生を落胆させた。
なんと、
『通常通り学校はあります。気をつけて登校してください』
何!?
こんなに強い雨風の中、か弱い小学生を登校させるだと!?!
なんて学校だ!
ブリブリ言いながらも、決まりには従わなければならず、渋々、家を出たのである。
学校に着くと、登校できない生徒たちが多いことが判明。
家が遠い子達は、親が行かせなかったのかも知れない。
台風は、衰える気配もない。
二時間目が終わった頃だったと思う。
先生が、こう言った。
「台風が来ていて危ないので、今のうちに家に帰りましょう。学校は、午後はお休みになります」
おおおおおおいいいい!!!!
大人よ!あんたたち間違ってるぜ!!
暴風雨の中、生徒たちを登校させ、また暴風雨の中、下校させる。
あぶねぇよ、その方がよっぽどあぶねぇよ。
今、思い返しても、あの日、なぜ学校側は生徒を登校させたのか……謎なのである。
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“感情的”という言葉はあまりいいニュアンスで使われない場合が多い気がする。
世の多数の感じ方がそうだからだろう。
もちろん、感情的な議論は答えを導き出すのに適していないものなのかも知れない。
でも、芝居に関わっていてよく思う。
感情はロジックより断然面白い、って。
語弊の無いように云っておくが、勿論、演劇にはロジックも演劇的客観性も必要だし、センスも必要だ。
ただ、感情を扱うのが演劇だし、舞台上に感情が流れていないとつまらない。
何故、感情はロジックよりも面白いのか――――――それはとても“感覚的”だからだと思う。
「なんか嫌だ」とか「なんか好い」ってな、ロジックでは説明しきれないものによって、感情は動き、放出される。
それを、みんなが“感じる”。
そして、感動が生まれる。
しかし、そんな理屈じゃないものを、“ちゃんとした”場所ではロジックを使わないと聞き入れてもらえない。
“ちゃんとした”場所とは、いわゆる“頭のいい人達”の場所のことね。
国会って処がそうかもね(…の割に醜態晒すことが多いけど………)。
頭がいいなら、否、人間なんだったら感じてもらえればいいのだけれど、彼等にはロジックという堅い頭が必要だ。
あと、“都合”もね。
あ、もう一つ、“体裁”も。
これらは、「皆様のために」という大義名分のもとにあるから厄介。
つまり、何が云いたいかというと、感覚が察知する危機感や不安感を薄っぺらいロジックで説き伏せるのは難しいよ、ってこと。
“ちゃんと”向き合わないと。
頭がいいなら尚更。
とてもシンプルなこと。
でも、彼等には出来ないよね。
なんでだろう。
頭が悪いか、何も感じられないのか――――――だとしたら、彼らは何?
人間じゃないのかな。
そういえば、イヤ~な印象を与える顔になってきたよね、あの人。
人間じゃないみたい。
と、感情的に書きなぐった僕は、やはり、議論する資格もないのだろう。
ならば、演劇に、芸術に、芸能に何が出来るのかを考えようと思う。
と、強引な採決が罷り通った日に、感情的などうしようもない人間は思うのであった。
LOVE & PEACE !ただ、それだけである。
或る日の稽古後のこと。
「当たり前のように虐げられる身分の者たちの、怒りがさ……」と、僕が云いかけた。
すると、演出という役割を担っていた、本業は女優、が云った。
「いや、怒(いか)ることさえ許されない者たち、だよ」と。
なるほど、表現することすら許されない身分…か。
…………
とりあえず、身分の話は置いておいて――――――
怒(いか)りをまったく抱えず、人は生きているものだろうか…?
誰でも、奥底を掻き回してみると、沈殿物が表面に浮かび上がってくるはずだ。
その中には、怒(いか)り、妬み、嫉み、憎しみ、悲しみ、苦しみなどの汚泥がドロドロと在る。
それらと混ざり合って、砂金も光っているだろう。
しかし、どこを切っても黄金しか出てこない人など居るのだろうか。
今、人々は怒(いか)っている。
少なくとも、僕の周りの表現者達は、皆、怒(いか)っている。
自国のリーダーに対して。
力に対して。
表現者たちは、それぞれの方法で、怒(いか)りを表現する。
しかし、怒(いか)りを表現することすら許されない時代が来るかも知れない、という怒(いか)りは何処へ向かうのか。
怒(いか)ることさえ許されない者たちが向かう先は……
などと、やはり怒(いか)っている者たちで『女中たち』という作品と向かい合ったのだった。
『女中たち』を、今、演ることは、そんな想いにまで連鎖してしまうのだった。

『女中たち』 作:ジャン・ジュネ
2015年3月24日(火)~29日(日)
於:絵空箱
数日前、本番中の劇場に向かう途中、歩道に一羽のカラスの子供が座っているのを見た。
まだ未熟で、飛べない子なのだろう。
何の警戒心もなく、素っ頓狂な顔で、無防備に佇む姿が愛らしく、同時に、一種異様な光景でもあったので、写真など撮る習慣のない僕が、
「あ、写真撮ろう……」
と、思ったのである。
しかし、直ぐに、頭上で数羽の親カラス達が、けたたましい警笛を鳴らしているのに気付いた。
子カラスに近づく素振りを少しでも見せようものなら、怖い映画のシーンによく出てくる、『死体を啄ばむカラスの図』のような惨事が、白昼の東京で繰り広げられるのではないかという、嫌な気配に満ちていた。
この場合、死体は、僕の顔をしている。
と云うわけで、写真は、無い。
カラスは、とても頭の良い鳥だ。何故、一本足りないのか………漢字の成り立ちに答えがあるらしい。
烏(カラス)も鳥(トリ)も、元々は象形文字。
烏の一本足りない棒は、目の部分なのだとか。
全身黒なので、何処に目が在るか判らないから、一本無いのだそうだ。
人間の目から見えなくても、カラスの目からは見えているものがある
―――――子供に迫り来る危機
人間の大人は、原発の再稼働を進めている。
命がけで、子供たちの未来を守らなきゃならないはずなのに。
目が、火を噴くように痒い。
捥ぎ取ってしまいたい程、鼻がムズムズする。
そして、発作のように繰り返す、拷問並みのクシャミ。
麻痺する脳みそ――――――

邪悪な顔したこのイガイガ達が、鼻腔や目から侵入し暴れまわる。
だが、実は文句も云えぬのだ。
人間の自業自得なのだから。
自然の気の流れを荒らしたりするから、こんな怖い顔して、地球が怒っているのだ。