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四大欲求

.21 2016 ちょっとしたこと comment(0) trackback(0)
「役者さんなんだぁ。好きなことを仕事にできてていいね」

と、よく言われる。
確かにそうだけど……何か違う。
「好き」だけではない、何か……
なんだろう…と、随分前に、自分の中を探ってみたことがある…
すると、あるものに行き着いたのだった。
とても腑に落ちた。
僕が行き着いた「あるもの」、はたまた「何か」の正体、それは――――――欲求。
人間の三大欲求、「食欲」、「睡眠欲」、「性欲」と同等の欲求が、もう一つあるのだ。

それを、「表現欲」と命名してみた。

ごく希に、お芝居や映画を観て、「感動した」とか「つまんなかった」…ではなく、
「あちら側に行きたい!!」
と思ってしまう人間がいるのである。
そういう人間には、食べられない苦しみ、睡眠を取れない苦しみ、性的禁欲を強いられる苦しみと同じように、この得体の知れない欲求を何とかしないことは、とてつもない苦痛なのだ。

はて、ここで疑問が頭を擡げる。
では、それ以外の大抵の人は、三大欲求で事足りるのだろうか――――――?

芝居をしたり、音楽をしたり、絵を書いたり、文章を書いたり、芸術をするのは人間だけだ。
そしてそれには、観る側と観られる側がある。
観る側は、観るという行為によって、「表現欲」を満たそうとしているんじゃなかろうか。
舞台上の役者や歌手、ミュージシャン、ダンサー、はたまた芸術家の作品を観て、自分の中に在る「何か」と重ね合わせ、心の旅をする。
それによって心を動かされ(全く何も動かない時もあるが…)、「何か」が満たされる。
つまらないものを観た時は、ブーイングや酷評を下す。
だって、「何か」が満たされないから、憤りや苦痛を感じるわけだ。
そして、それを表に現さないと、何らかの支障が出るだろうことが想像できる。
だから、言葉や態度、行動によって吐き出す。
で、またそれを受ける人間がいて……
表現によって、エネルギーの交流と連鎖が生まれる。
つまり、他者との関係が無ければ、表現は成立しない。
シャカイを形成する人間は、人と繋がっているという意識が無ければ、生きられないのじゃなかろうか。
だから、人との繋がりを感じられる「表現」という行為は、人間には不可欠だ。
……はい、気付いておりますよ…なんだか、「表現」という言葉の捉え方と意味がかなり広がってきてしまい論点がズレ気味……
だけど、こうなったら強引に言ってしまおう!
やはり、観る側にも「表現欲」はある!!
つまり、誰にでも「表現欲」はある!!!


ふゅ~~~~~


人間しかやらないという意味では、スポーツもそうだけれど、これは表現なのだろうか。
そういえば、よくスポーツ選手のインタビューで、
「いいパフォーマンスができた」
という言葉を耳にする。
特にプロフェッショナルや有名なスポーツ選手になればなるほど、観客やファンに“観られる”という感覚が強いだろう。
となると、パフォーマンスという言葉が出てくることに、なんの違和感もなくなるが、依然、スポーツが「表現」なのかどうかは、分からない。
でも、人間しかやらない、人間には必要なものであることは確かなようだ。
余談だけれど、英語では、スポーツも楽器も芝居も「play」を使うんだよな…と、ふと想ったりした。
無関係ではいられない何かがあるのかも知れない。

さて、じゃあ観る側と観られる側は、どう決まるのか――――――
これは、自分が何を選択しているか、によって決まってくるのではなかろうか。
僕は、役者をやることを選択した。
否、
「あちら側に行きたい!!」
と思ってしまった。

まさに、“欲求”なのだ。

じゃ、観る側を選択した人との違いは…
もしかしたら、役者になろうなんて人間は、表現欲が“強い”、というより、“特殊”なのかも知れない。
性癖のようなものかも………ん?待てよ。
性癖で説明がつくなら、やはり「三大欲求」でいいのか?!?

否、違う!
人間には、絶対、表現欲なるものがあるはずだ!
観る側にも、満たされないと苦痛を伴う表現欲が!
表現には、しばしば、否、必ず感情が伴う。
表情筋を動かし、笑い、時には涙を流す生き物の、性(さが)なのだ。
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真実

.14 2015 ちょっとしたこと comment(0) trackback(0)
真実を語ることに、何の意味があるのだろう。

人間が、考え、感じる生き物である以上、人の数だけ真実は在る。
時に、都合によって、いとも簡単にすり替えられもする。
意図的にすり替えたとしても、すり替えたものこそが真実。
だから、元々の真実は、もはや真実ではなくなるのだ。

真実を語ることに、一体何の意味があるのだろう……

個、己、孤……

.07 2015 ちょっとしたこと comment(0) trackback(0)
芝居をやればやるほど、“個(己)”にぶち当たる。
勿論、間違いなく、芝居は“和”なのだ。
独りで出来るわけないのだから。
例えスタッフすら居ない、たった独りで創り上げた芝居だったとしても、観てくれる人、つまり観客が居なければ芝居として成り立たないのだし。
でも、和を突き詰めると個(己)に行き着いてしまうのだ。

ほら、孤独を感じるのは、独りでいる時なんかよりも、断然、集団の中にいる時の方が強い、みたいに。
ちょっと、違うか……?

Character

.29 2014 ちょっとしたこと comment(1) trackback(0)
9月の月一イベント『オニケン~鬼ヶ島研究会~』で使う小道具を探していたときのこと。
その小道具とは、猿のぬいぐるみである。
なぜ必要だったのかは、イベント内容を説明しなくてはならなくなるので割愛。
タイトルからも概ね想像つくだろうし……

先ず、見当を付けた玩具屋を回った(僕は、足で探すのが好きである)
しかし、どの店にも猿のぬいぐるみは無い。
というか……市場で販売されているぬいぐるみのほとんど(否、全てといってもいいかも知れない)が、キャラクター商品なのだ。

キャラクター商品とは、
①人気アニメのキャラクターだったり、
②ゆるキャラだったり、
勿論、
③あの猫の会社と
④ネズミの会社
が出しているキャラクターもののことである。

どの店も、販売しているのはこの4つのカテゴリーである。
僕はとある玩具屋で、店員さんにこう尋ねた。

「オーソドックスな猿のぬいぐるみを探しているんですが、ありますか?」

丁寧な対応で調べてくれた店員さんからの返答は、

「オーソドックスなぬいぐるみの販売フロアは1階なのですが、猿のぬいぐるみは置いてないようです」

なるほど……1階と言えば、エントランスを入ってすぐのフロアのことである。
その店に入ってすぐ、そのフロアは隈なく見たのである。
しかし、そこにはキャラクターものしか無かったので、2階へ上がったのだ。
2階にもキャラクターものしか見当たらなかったので、件の店員さんに尋ねたのだった。

もう既に数件回った後だったので、多少落胆しながらも、仕方ないので店を出ようと1階へ降りていった。
そして、エントランスを出かけたその時、ふと思い出したのだった……オーソドックスなぬいぐるみのコーナーを、このフロアで見つけられなかった自分を。
次の瞬間、何者かの見えない手によって、意地悪ゆーすけ君のネジが巻かれたのだった。
この見えない手の持ち主は、まるで子供のように無邪気で残酷である。
その子が玩具を手にしてしまったのだ!!
その子が言う――――――

本当か?本当なのか、店員よ!本当にこの店にはオーソドックスなぬいぐるみがあるんだな?猿が無いのは得心した。しかし、店員よ!オーソドックスなぬいぐるみの売り場は1階だと言ったな?つまり、この店には、オーソドックスなぬいぐるみを販売しているということだ。そうなんだな?いいだろう、ならば確かめようではないか!!!

意地悪ゆーすけ君は、見えない手によって180度向きを変えられた。
そして、再び店内へ戻り、1階フロアを回り始めたのである。
一周、二周………
ネジは勢いよく戻ってゆく。
三周………………
動きがだんだん鈍くなってゆく……


――――――無い…どれもこれも、キャラクターものではないか………



そして、とうとう、意地悪ゆーすけ君のネジは戻りきってしまった……

う~む、これはどういうことだろうか。
世間のオーソドックスとは、キャラクターもののことなのか…?
昔からそうだったか……?
否、僕が小さい頃、確かにオーソドックスなぬいぐるみがウチのおもちゃ箱にはあった。
姉のお気に入りのパンダのぬいぐるみは、ヒーコちゃんと言った。
命名は、勿論、姉である。
あの頃、名も無きぬいぐるみ達は、持ち主によって命名されたのだ。
そう!命を吹き込まれたのだ!
命を吹き込まれた彼等は、性格を形成し始める。
だから、例え近所の子と同じぬいぐるみを持っていても、自分のを見分けることは簡単だった。
何故なら、名前が違うから。
それが今のぬいぐるみ達はどうだ!
最初から確固たる名前があり、キャラ(性格)までしっかり備わっているではないか!!
勿論、僕が子供の頃からキャラクターものはあった、でも…でも……
おい、店員よ……くっぐぐぐゎっく……………
………
……
…しかし、店員にそんなことを訴えても仕方がないことは判っているのか、見えない手は、もうネジを巻かないらしい………





なんだか少し寂しい気持ちを抱え、僕は店を出た。
その後も散々探し回ったが、オーソドックスな猿のぬいぐるみは見つからず……
しかし、諦めかけていたその時――――――灯台下暗しとはよくいったものだ。
近所の商店街にひっそりと在る、輸入おもちゃを扱うお店でとうとう見つけたのだった!
その時の興奮たるや!
やはり、名も無き真っ新なぬいぐるみは、まだ存在したのだ!
日本のものではないことに、一抹の不安と落胆を感じるが、地球上のどこかでは生産されているわけだ!!
そんな人類にはまだ希望があるのかも知れない!

やっと出逢えたその子に、僕は名前を付けた。




命名 「さる」





だって、ゴリラだったから……





属する

.28 2014 ちょっとしたこと comment(0) trackback(0)
湿気を孕んだ暑さにむせ返る季節の去り際は、割と潔い。
随分と涼しくなった。
ま、週間天気予報によると、来週あたりにまた暑くなるようだが、今はこの涼しい気分のまま書き進めることにする。

僕は、この時期が一番好きかも知れない。
突然、暑さが和らいだどころか、肌寒いとさえ感じる、この瞬間――――――
長袖を引っ張り出したり、朝の布団がやたらと心地好かったり……
僕には、『秋眠暁を覚えず』の方がしっくりとくる。

そう云えば、昔から、夏よりも冬にワクワクする子だった。
夏の解放感は開けっぴろげすぎて、居場所がない。
冬に感じる解放感の方が、自分の中の“本当”の部分に繋がっているように感じる。
これは、単に自分だけのイメージなのだけれど……

つまり、僕は、秋や冬に属する人間なのだと思う。

昼か夜かだと、夜に属している。
山か海で云うと、山に属している。
光か影なら、影だ。

もちろん、夏や昼、海や光が嫌いなわけでも苦手なわけでもない。
ただ、冬、夜、山、影からは安心感というか、居場所を与えて貰える……そんな気がするのだ。

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yoosque

Author:yoosque
林勇輔――――役者
1974年5月16日(木)、疳の蟲を身体いっぱいに抱え、この世に生まれ出ずる。
<幼年期>
蟲たちは、勇輔の故郷、讃岐の民間療法により体外に誘き出され駆除されたかに見えたが、未だ体内に巣食っている模様。
<少年期>
好き嫌いが多く、この世で食べられるものが少なかった。
<青年期>
中途半端な生き方を謳歌する。芝居に出逢う。
<壮年期に差し掛かる、現在>
2012年1月12日(13日の金曜日イヴ)、突然、“声溜め”を公開することを決めた。

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