浮遊物

.22 2013 comment(0) trackback(0)
今年も、またこの季節がやって来た。
“荒れる気”の季節が。
空中に飛散している植物たちの怒りの粒子は、望んでもいないのに体が迎え入れてしまう。
迎え入れる割には、受け容れられない。
そして、気が荒れ始める。

と、ここからは全く違う話しが始まる。
というのも、浮遊物について、最近、思うところがあるので、書いてみたいと思った。

空気中には、花粉同様、色々なものが浮遊しているが、物質ではないものも在るように感じる。
例えば、イメージや言の葉なんかも、ふわりふわりと浮遊しているのではないかと……
それをキャッチして、自分の中の何かと混ぜ合わせることで、言葉を発したり、文章を書いたり、ものを創ったり、絵を描いたり、音楽を奏でてみたり……表現しているような気がする。
その浮遊物は、誰もが平等に、しかも自由に使うことが出来るものなので、例えば、誰かの作品にとても共感した、なんて時は、

「なるほど、この浮遊物をこんな風に料理したんだ!」

的に感じるのではないかと……
つまり、キャッチしている浮遊物が同じであればあるほど共鳴、共感するというか……
シンパシーやシンクロニシティは、こんな時、しばしば起こる気がする。

しかし、同時に、こんな風にも思う――――――

例えば、僕のパフォーマンスを観に来てくれ、抱く感想や想いは、十人十色である。
つまり、その想いは、もはや僕のものではなく、既にその人のものだ。
僕が発したものに共鳴なり共感したとしても、それは、反発や嫌悪感を抱くのと同じくらい、元々の僕のそれとは違うものだと思う。
そのくらい、人間は孤独なのではないかと。
となると、孤独など感じる必要などないのかも、とも思う。
だって、どうせ孤独なのだから、それをああだこうだ云ってみたところで、どうしようもない。
勿論、人は独りでは生きてゆけない生き物だけれど、孤独の意味を履き違えると、誰かに依存してしまう気がする。
それは、あまり美しくない。
「孤独=寂しい」ではない、と理解した時…本当に孤独になれた時、初めて見えてくるものがあるように思う。

なにはともあれ、浮遊物を介して人の意識や世界は繋がっているのだから、孤毒に苛まれることはない。

と、今の僕が選び取った浮遊物を混ぜ合わせると、こんな文章が出来た。
“浮遊物”というのも、それこそ、浮遊物から得て出来たメタファーなので、
「“地下資源”って言葉の方がしっくりくるよ!」
という意見があったり、
「結局、何が云いたいのかさっぱりわからん」
という方も多いと思う。
それでいいと思う。
全く同じ人など居るはずもなく、自分の中にも、違う自分が何人も居るのだから。

そんなこんなで、僕は今日も、もの創りをしている。
観客の前に立つ為に――――――

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Author:yoosque
林勇輔――――役者
1974年5月16日(木)、疳の蟲を身体いっぱいに抱え、この世に生まれ出ずる。
<幼年期>
蟲たちは、勇輔の故郷、讃岐の民間療法により体外に誘き出され駆除されたかに見えたが、未だ体内に巣食っている模様。
<少年期>
好き嫌いが多く、この世で食べられるものが少なかった。
<青年期>
中途半端な生き方を謳歌する。芝居に出逢う。
<壮年期に差し掛かる、現在>
2012年1月12日(13日の金曜日イヴ)、突然、“声溜め”を公開することを決めた。

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