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去る3月3日、『Le Tempsで琉譚~ものがたり~』――――――幕
やはり、自分が演りたいのは、“ものがたり”なのだと、改めて思った。
その“ものがたり”とは……
数年前――――――
謎多き魅惑の人物、厩戸皇子をもっと知りたくて、と或る本を読んでいた時のこと。
ストンと音を立てて、何かが腑に落ちていったのを感じた。
本によると、“もの”とは、“もののけ”や“憑きもの”とも云うように、“邪”や“鬼”の類をさす言葉なのだそうだ。
しかも、古代日本では、“鬼”と“神”は、同一のものだったらしい。
神に通じる力、“神通力”を持つものを、“もの”と呼んでいたのだと。
名前を見ても分るように、≪物部(“もの”のべ)の一族≫は、鬼の一族ということになる。
更に、鬼を滅ぼすことが出来るのは、同じ力を持つ、鬼でしかない。
つまりは、物部氏を滅ぼした蘇我氏もまた、“鬼の一族”ということになる。
中でも、厩戸皇子はひときわ神通力が強かった人物なのだろう。
何故なら、像なり画なりに遺されているその姿は、しばしば童の姿をしているから。
純粋無垢な童とは、神通力を持つものの象徴だったようだ。
そう云えば、子供の頃は、当たり前のように“何か”と通じていたような気がする。
鬼退治で有名な桃太郎も、童として描かれている。
そう――――――鬼を退治できた正義の味方、桃太郎もまた“鬼”なのだ。
では、桃太郎を善、鬼を悪としたのは一体誰なのか?
これは、全く、屈折した僕の意見だが、強者の都合ではないだろうか、と思う。
人が二人以上集まると、それはもう立派な社会だ。
社会をうまくまとめるには、ルールが必要だ。
善と悪をきっちり分けてしまった方が、統制が取りやすい。
しかし、どうしても「割り切れなさ」を感じてしまう。
割り切れないじゃないかと感じてしまい、更に、表現してしまったが最後、マイノリティとしての人生が始まる。
こんなことを書いてしまっている僕は、間違いなくマイノリティだろう。
この“もの”の考え方は、古代の日本的感覚なのかというと、そうでもないらしい。
古代ギリシャの神々は、嫉妬深く淫乱、愛憎入り乱れてとてもドラマチックだ。
そして、アプラクサスと呼ばれる神――――――
ヘルマン・ヘッセの『デミアン』でこの名前を知り、“もの”の時と同じようにストンという音が鳴った。
2012年末に、SARAVAH東京で演らせてもらった『Noir et Blanc~黒の私と白の僕~』では、この神の名前を使わせてもらったくらいだ。
アプラクサスとは、こう説明されている――――――
「われわれは古代のあの宗派や神秘的な団体の考えを、合理主義の観点の立場から見て素朴に見えるように、それほど素朴に考えてはならない。古代は、われわれの意味での科学というものはぜんぜん知らなかった。そのかわり、非常に高く発達した哲学的神秘的真理が研究されていた。その一部から魔術と遊戯とが生じ、しばしば詐欺や犯罪になりさえした。しかし魔術でも高貴な素性と深い思想を持っていた。さっき例にひいたアプラクサスの教えもそうであった。人々はこの名をギリシャの呪文と結びつけて呼び、今日なお野蛮な民族が持っているような魔術師の悪魔の名だと思っている。われわれはこの名をたとえば、神的なものと悪魔的なものとを結合する象徴的な使命を持つ、一つの神性の名と考えることができる」
(中略)
「神的なものと悪魔的なものを結合する」。そのことばがあとまで私の耳に残った。そこに話がむすびついていた。それはデミアンとの交わりの最後のころの対話以来親しんできたことだった。そのときデミアンは、われわれはあがめる神をもってはいるが、その神は、かってに引き離された世界の半分(すなわち公認の「明るい」世界)にすぎない、人は世界全体をあがめることができなければならない、すなわち、悪魔をも兼ねる神を持つか、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝をもはじめるかしなければならない、と言った。――――――さてアプラクサスは、神でも悪魔でもある神であった。
(新潮文庫、ヘルマン・ヘッセ『デミアン』、高橋健二/訳、より引用)
古代の人々が、神と呼んでいた“もの”は、光と影、生と死、愛と憎悪―――――あらゆる陰と陽を併せ持った“ひとつのもの”なのだったのではないか…
宇宙そのもの、というか……
その宇宙に生きている人間は、自分の中に、他人の中に、決して“割り切れないもの”を見ているのではないかと……
だから、人を語るものを“ものがたり”と呼ぶのではないかと………
――――――そして、僕はやはり、“ものがたり”を演りたいのだと、自覚し直すのだ。
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