Contents or Contexts?

.16 2014 comment(1) trackback(0)
今更、な話題で申し訳ない。
しかし、色々想ったので、書いておこうと思った。
数日前、フェイスブックで、乙武洋匡さんの、こんな記事を目にする機会があった。
先ずは、一読してみて欲しい。

『佐村河内氏(名義)の作品を酷評する人々の心理とは』(2014年2月11日「乙武洋匡オフィシャルサイト」より)

コンテンツかコンテクストか―――――――
売れるにはどちらも必要なのだろうか……?
そそるコンテクストさえあれば、売れるのでは……?
コンテクストに惹かれる人の方が、実は圧倒的に多いだろうと思う。
というか、なんだかんだ、コンテクストを基準にコンテンツの良し悪しが決定づけられる傾向が強い、と言ってしまうのは乱暴だろうか……。
否、それほど乱暴ではないように思う。
商品(或いは作品など)に、感動秘話をくっつけてプレゼンテーションすることで、売れる確率は高くなる気がする。
売る側は、消費者(或いは鑑賞者、観客)の興味を引こうと、商品の感動的なドラマ(コンテクスト)作りに躍起になる。
消費者(或いは鑑賞者、観客)側は、よく出来たバックボーンのドラマに絆され、まんまと感動し、購買や応援というアクションに至る。
誤解のないように言っておくが、これは、コンテクスト戦略を否定している訳ではない。
僕だって、商品(或いは作品、人物)の感動的なコンテクストに涙を流す時が多々ある。
過去にも、こんな事を書いていた。

『Imagine』(2012年8月6日)

さて、僕は役者という人種である。
役を演じる者として、例え話をしてみる。

例えば、僕らは、演じる上で台本に書かれていない部分も想像し、創造する。
台本に書かれている部分は、氷山の一角に過ぎない。
役者が演じる役の人物をコンテンツ、台本に書かれていない想像した部分をコンテクストだとする。
コンテクストをしっかり背負って舞台上に存在することで、役の存在感や説得力というものに繋がってゆく。
例え、舞台上に登場していなくても、登場人物たちのドラマは陰で進行中の筈なのだから、その部分をちゃんと生きてさえいれば…
つまり何が言いたいかというと、コンテクストを目に見える形や言葉で説明しなくても、コンテンツにそれが反映されていれば、充分魅力的な筈だ、ということだ。
しかし、【売れる・売れない】問題となると、やはり、マジョリティーの市場では、分りやすく感動的なコンテクストを目に見える形で提供した方が、売れるようだ。
要は、なんでもいいのだ、コンテンツがホンモノでさえあれば。
しかし、何故だか何度も云ってしまうが、コンテンツがいくらホンモノでも、優秀な(?)コンテクストが無ければ、なかなか日の目を見ないのが現実。ふ~~~~~(大きな溜息…)

さて、ここまで語っておきながらなんだけれども、実は、僕が一番気になるのは、【売れる・売れない】という問題ではないのだ。
やれやれ、では、なんなのさ!?と問われれば、こう答えよう。

それは―――――――【感動する・しない】のこと、である。

勿論、多くの方に自分の生んだ作品を観て欲しいと思うから、【売れる・売れない】の話とも関係するのだが、それは一先ず置いておいて、【感動する・しない】の話をば。
作り手がどういう経緯で其処に立ち、その作品を創ったかという苦労話や犠牲にしてきたものの事を語れば、語らない時よりも、作品に感動する観客は断然増えるだろう、と思う。
例え、最初はさほど感動していなかったとしても、作者や役者の、つまり創り手の感動コンテクストが付け加えられた途端、作品自体の評価も何割増しかになってしまわないだろうか。
作品の評価は上がらなくても、創り手を応援しようという想いに駆られる人も少なくないだろう。
これは、正当な評価なのか―――――――?
―――――――うん……間違いなく、正当な評価なのだろうと思う。
何故なら、観客は、感動したいからである。
僕が観客として客席に座っている時もそうだ、やはり感動したい。
だから、感動するところまで連れて行って欲しい。
ただ、僕の場合、作品に純粋に感動できることが一番だが。
苦労話を聞かされて感動したとしても、「ずるい!」と感じてしまうのだ。
それは、僕も役者、或いは創り手だからだと思う。

僕は、自分の売り方が下手だとよく言われる。
いやはや、その通りだと思う。
自分の持っているコンテクストは作品の中に透けて見えればいい、と思っている。
苦労話や犠牲にしているものの話などを、わざわざ観客の前ではしない。
しかしそれは、自分の作品を、コンテクストを含めた感動作に創り切れていない、ということかも知れない。
いやいや、その前に、作品自体に力が足らないのかも知れないが…
とにかく、「僕はこんなに苦労して、色んなものを犠牲にして、がんばって…云々」と、自ら観客に語ってしまうのは、どうも…美しくない気がしてしまうのだ。

厄介な美意識である。

にも拘らず、僕の発するモノに何かを感じ、想い、感動してくれる人達が居てくれる。
多くの人が去っていった中、今でも目撃し続けようとしてくれているみんなに、心からの感謝を申し上げたい。
今までの僕の経緯(コンテクスト)だけでなく、純粋に、“今の僕”が発するものを感じようとしてくれて、ありがとう。
しかし、現実問題として、このままでは、個人で表現し続けることが困難になってくると思う。
実際、もうなってきている。
やれやれ、僕は自分を【売る】ことを考えなければならないようだ。
個人の表現者としての自分を。
勿論それは、何かに迎合することでも媚を売ることでもない。
どう転がっても、僕にはそれが出来ないという事が、これまでの人生から明らかである。
とにかく、自分の厄介な美意識、感覚を信じ、出来る限りの事をしようと思っている。
表現し続ける為に、せめて必要なものが必要なだけ充分に準備出来るような生活ができるように、自分を前向きに【売る】ことを、しようと思っている―――――――

どうか、応援して欲しい。



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comment

cotidiano
自分を売る、しかも「個人」で自分を売る、
というのは並大抵のことではないと思います。

本当にいちいちに「自分」を説明し、
伝えるだけでも大変な作業ですよね。

それを前向きに、誠実に、果たそうとする、
すごいことです。

応援しています!!
2014.02.17 23:36

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Author:yoosque
林勇輔――――役者
1974年5月16日(木)、疳の蟲を身体いっぱいに抱え、この世に生まれ出ずる。
<幼年期>
蟲たちは、勇輔の故郷、讃岐の民間療法により体外に誘き出され駆除されたかに見えたが、未だ体内に巣食っている模様。
<少年期>
好き嫌いが多く、この世で食べられるものが少なかった。
<青年期>
中途半端な生き方を謳歌する。芝居に出逢う。
<壮年期に差し掛かる、現在>
2012年1月12日(13日の金曜日イヴ)、突然、“声溜め”を公開することを決めた。

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