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世界のセックス・シンボル―――――マリリン・モンロー
そのイメージ、というより、レッテルを払拭すべく、リー・ストラスバーグが芸術監督を務める、アクターズ・スタジオの門を叩いたのは、有名な話である。
“I don’t want to play sex roles any more. I’m tired of being known as the girl with the shape………..”
これに比べたら、自分は恵まれていると言わざるを得ない。名声こそ、手に入れてはいないが。いやいや、待てよ、これから手に入れる可能性だってあるわけなので、ここで決めつけるのは止すとしよう……。
僕は、劇団に所属している役者なので、殆どの劇団本公演には参加してきた。僕が入団してから18年目に突入したのだから、いくら新作が多い劇団とはいえ、当然、再演を繰り返している作品も幾つかあるわけだ。しかし、どういうわけか、僕が同じ役に再びキャスティングされることは、稀である。二回再演された、ある作品では、“イメージ”と合致したのか、初演を含め三回とも同じ役ではあったが、依然、同じ役を再び演る経験は少ない方だろう。
その代わりと云ってはなんだが、老若男女、人ではないものに至るまで、ありとあらゆる役を演じさせて貰った。男優のみで構成された極端劇団(実際、韓国公演の際、こう表現された)故に、女性を演じる機会も、一般的に役者をされている方々より圧倒的に多い環境でもあるので、老若男女と云っても、ニョの割合が高いくらいだ。主役を任されることも、ごく稀ではあるが、劇団内では二度ほど経験がある。これもまた、とても恵まれたことだろう。が、それは一先ず置いておいて、この“ありとあらゆる”には偏りがあるように思うのだ。その偏りとは、“大人の男役以外”である。もちろん、経験が無い訳ではない。少ないが、幾つか演らせて貰った。じゃ、何も不遜はないではないか。何が、そんなに引っ掛かっているのか……
実は、昨年、珍しく僕が主演した作品(もちろん少年役)が上演された。今までに経験したことのない、不思議な感覚で舞台に立っていた。役を演じているというより、その役を知っていた、というような……。今思えば、魔法にでも掛けられているような、心地の良い微熱がずっと続く感覚だった。そして、観客を含め、公演に関わっていた全員が、その不思議な空気の中で呼吸し、他人の脈音を自分の中に聴いていたような……夢のような感覚―――――なんと今年、その続編が上演されるという。つまり、僕が演じた少年は大人になるわけだ。「演れる」という自信が、実は、かなりあった。だって、その役が僕を選んでくれると思っていたから。しかし、結果は、
大人の男役は、“有り得なかった”である。
自分の何が至らなかったのか、自分を責めた。身長の低さなのか、極端劇団の主役にしては顔がマズ過ぎたのか、いやいや、今回は顔のマズさは理由にならない。だって、仮面を被っている役なのだから。では、芝居のマズさか……まぁ、僕の“大人の男役”は、観客からも、さほど求められていない感が、少なからずあるように感じてはいるが……。はて、この辺りは、マリリンの悩みと少し似ているだろうか?なにせ、僕の“イメージ”はというと、“女優”なのだから。
「僕は、女性役の専門ではありません!」
と、女役を褒められる度に、素直に喜べないどころか、悔しさで胸がいっぱいになっていた、かつての自分を思い出す。今は、役に対して何の垣根も感じていないし、褒められれば素直に嬉しい。しかし、そう思えるようになるまでには、他人に迷惑を掛け、自分を傷つけ、大変だったわけだが……話を戻そう。別に、滅多にチャンスの来ない主演だから是が非でも演りたかった、と駄々をこねているのではない。勿論、主演は魅力的だ。役者なら誰だって、中心に立つあの感覚を味わいたいものだろう。しかし今回は、それ以上に、挑戦したかったのだ。自分の可能性は、やはり“観客や演出家が首を縦に振る大人の男役”には及ばないのか、挑戦し、いい意味で裏切ってみたかったのだ。何よりもこの役を愛していたから、誰よりも、大人になったこの少年のその後を生きる自信があったから―――――しかし、“有り得なかった”らしい。
十数年前、役者を始めて2~3年の僕は、どツボに嵌っていた。ただただ出口が見つからず、真っ暗な穴の中でもがいていた。何の突破口も見当たらないグチャグチャの状態だった。だから、冷静な判断など出来なかったのか、その時、ある無謀な行動に出た。片道の航空券だけを手に、ロンドンに居るデイヴィッド・ベネットの許へ飛んだのだ。彼とは、所属する劇団の演出家がオーガナイズしたワークショップで出逢った。何も知らない僕には、とにかく彼との出逢いは衝撃以外の何物でもなかった。
デイヴィッドは、元々アクターズ・スタジオに通う俳優だった。聞く話によると、かなりいい俳優だったらしい。しかし、リー・ストラスバーグのアドバイスもあって、ティーチングをやるようになり、そのまま教える側に転向した人だ。奇しくも、アクターズ・スタジオではマリリン・モンローと同期だったらしい。クラスにマリリンが居た、というエピソードは、何度も聞かされた。アメリカ人の彼が、イギリスに渡り、俳優の為にプライベートレッスンをするようになるまでには色々あったようだが、まぁ、それは、ここで言及すべきことではないだろう。とにかく、あのおじいちゃんの処へ行けば、何か見つかるかも知れないと、あの時の僕は、藁にも縋る思いだったのだ。それから丸二年、僕は日本へ帰らなかった。
正直、帰国してからの数年間も、かなり危なっかしい状態であったのは否めない。しかし、グチャグチャだったそれまでと、現在の状態には大きな違いがある。今は、何も見つからずもがいているのではなく、次に行かなきゃ、行きたい!と強く求めていると自覚している。その求めている方向がどこに向かっているのかも、ぼんやりとではあるが、輪郭がクリアになってきているように思う。やはり、あの時とは違っている。
表現者としての自分の可能性を探求したい、というマリリンの欲求は、至極当然の欲望だ。しかし、それは、観客には関係のないことだろう。だって、大抵の人にとって、セックス・アイコンのマリリン以外は、マリリン・モンローではないのだから。イメージからの脱却など、誰も頼みはしなかったはず。しかし、自分の中に、表現欲というマグマがふつふつと滾っているのを見つけてしまった以上、無視するわけにはいかない。自分の個人的な問題と分っていながら、わざわざ公の場で吐き出すことにも、大きな意味があったのだろう。だから、という訳でもないが、僕にもここに書く必要がある。
もし、これを読んでくれている人の中に、劇団のファンの方がいらっしゃったら、色んな憶測が頭の中をグルグルしてしまうかも知れない。その憶測がどんなものであれ、心配はしないで欲しい。僕は、表現することを辞めるつもりはないのだから。ただ、今回の“有り得なかった”ことによって、強く自覚した自分の中に在るものを、“声溜め”であることに託けて、徒然なる自分の為の覚書として、ここに書いておきたかったのである。少しずつでも、前に進む為に。そして、これからも、見守って欲しいという願いも込めて―――――
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